「選択の自由」、す。
4ヶ月ぶりにブログ復活しようかなどと思いつつ、すっかり書き方忘れてしまい候。
かといって語りたいことがなくなるわけはないわけで。
映画や音楽のこと。知人の結婚式のこと。参加したパフォーマンスでの出来事。
相方の体のことや親のこと。自分の仕事のこと。
どれも大切なことであるのは間違いないけど、まがりなりにも不特定多数に向け発することでもない、かも。
と思うことが多い今日この頃・・・
なんか自動書記のように、こういう書き方しているのも、書かなきゃいけないことを探しながら書くという、ある種のリハビリであったり。
3月に書いた愚痴の後だけにね。まずはお得意の独り言を、ぐだぐだ書くっす。
「その想いじゃマストじゃないっよ」
「その想いじゃ、微妙、微妙」
「そうか。確かに人間は綺麗なだけじゃない」
「けど、それに開き直り、溶け込むだけじゃ」
「もう生きる屍っス」
中村一義くん(100S、『ALL』)、相変わらず、いいねぇ。
そうす、と思える練りこまれた独り言が、いいです。
「上まで、よく聞こえるか」
「上まで、このララバイ」
「変な理論の残骸を、いいから吐き出せ」
「デストロイ」
評価が相変わらずあがんないけど、彼の、詩のオリジナリティ、でたどり着くひたむきさは、ほんとうに清清しい、気持ちいい。
「東京を手にし 状況に流れないように」
「全時代を手にし 夢に忘れらんないように」
「なーんもない 過度期とはいえ、なーんもない」
癒されるす。やる気わくんだな、ほんと。
「なーんもない。が、限りなく広い。なーんもない」
前記の愚痴は、相変わらず残ってはいますが、会社のおえらい様が、会社のシステム上の問題を指摘した際に
「そうはいっても、今の会社を選んだのは、君自身だから」
そういわれて、かなりカチンときたすが(いちおういいわけでいえば、自分入社した後に、会社は大きな組織に吸収されちまいました)、まぁ、たぶん、自分はいろんなことを、強制的かつ自然圧力的な見えるものであったとしても、何かを選んできたわけで、現状、ここにいるのも、この日本にいるのも、40となっては自分の選択以外にないわけですね。その辺、自覚させてくれたので、今となっては、感謝す。
はい。
で、何がいいたいのかといえば、今はこれですね。
選挙にいきましょう。
いまさら、声を大にして言わなくても、ですが。まぁ、少ない選択の機会です。大切にしたいです。
来週の選挙までに、なんとか、自分が現政権をまったく信用できない理由は書きたいですが、
一言。小泉以上に最悪、な政権である。ですよ。ほんとに。
年金問題も、新潟県中越地震で起きた原発事故(文字通り人為的な事故ですこれは)、
憲法改正も、障害者や高齢者への絶望的状況も、ごく限られた金持ち&企業家優遇の施策も、「美しい国」教育3法も、裁判所や警察が人民のものでなくなってるのも、冤罪の構造も、いじめがなくなんないのも、政治家が腐敗してんのも。
ぜーんぶ、自分が選択してきたことなんすね。
で、ぜーんぶ選択したけど、選択したつもりもないまま、40年。
で、わからないけど、よく言われる政治に絶望しているのか、興味のない方。特に自分もそうだったけど、若い方々。
選んだつもりはない、も、選んでいること。くらいは自覚せねばなるまい。早いうちに。
で「選択したけど、変わんないじゃん」ではないことも自覚せねばなるまい。
一見、なーんもないように見えるけど・・・ほんとは、「限りなく広い」んですね。
選べる世界つーのは。
まぁ、よいではないか。そういう気持ちも。
いいねぇ。あーすっきりしてきた。
あと、原発って、いるのかほんとに?選びたくなかったもんだったこと、思い出してきたぞ。
清志郎先生の「いらねー、いらねー」に共感していたはずなのにね。あ、腹たってきた。ガソリン高いけど、石油会社ぼろもうけだし。
ま、そういう矛盾も含め、まずは、われらの「選択の自由」、今回こそ、です。個人的には。