「ヴイタール」・・・塚本晋也監督!! | ネオ・ビジョンかわら板

「ヴイタール」・・・塚本晋也監督!!

ヴィタール

監督・脚本・撮影監督・美術監督・編集: 塚本晋也

出演: 浅野忠信/柄本奈美/KIKI/岸部一徳/國村隼/串田和美/りりィ/木野花/利重剛

音楽:Cocco


あくまで、「個」の強い、強烈な作品を放ち続ける映画作家、塚本晋也の新作。


この作家の作品は、実はかなりの数を見ているのですが、観るたびにそのアクの強さ、いいかえれば自主制作くさいナルシスティツクな作品に、少々辟易してしまうわけなんですが、それでもまたむくむくと作品を見たくなる、という奇妙にアンビバレンツな感情を自分に抱かせる不思議な作家です。


今回の映画の物語は・・・


事故ですべての記憶をなくした博史(浅野忠信)は、なぜか医学書に興味を示すようになり、医学部に入学。その解剖実習で彼の班に若い女性の遺体が割り当てられた。博史は実習にのめりこみながら失われた記憶を取り戻しつつ、いつしか現実とは異なる世界を生き始めるようになる。そこには、涼子という女性がいた…(アマゾンより)



ネタバレですが、ここでいう涼子とは、記憶を亡くした主人公の恋人、という設定です。


元恋人を解剖する、というプロセスを通して、此岸と彼岸の境をさまよいながら、いつしか「記憶」=自己を再生していく、というこの物語。


なんでしょうね。始めて、この作家の作品で泣けました。

恥ずかしげもなくいうが、「愛」と「生」の物語、なんでしょうね、これは。


知人の死という体験の影響?

また、解剖という行為、はたから見ればある種グロテスクな行為が、人間の肉体を細胞単位で見つめなおす、という意味で、先に感じた「般若新経」とリンクしたからなのか。


さらに・・・自分の友人のアーティストに、自分の作品のために、解剖医学のゼミにお願いして、実際の解剖の現場に立ち会いながら作品を作っている人がいる。そのかたわら、医学の教材用の解剖図も描いている奇妙な人物ですが、その彼女の作品は、解剖図を抽象化し、再構築した独特の世界観を提示してます(実は、あるダンスパフォーマンス作品で数回コラボレーションさせていただいた作家)。


彼女が、解剖の現場に立ち会ってまで、何を獲得しようとし、何を表現したかったのかは、ホントのとこはわからないけど、その作品を前にした自分が感じた、奇妙に居心地悪い違和感。この映画の前編を通して感じてしまう違和感とも共通するものがあったように思う。


そういう友人が身近にいたことも、この映画の印象に大きく影響しているのかもしれません。


知人のアーティストが、執拗なまでに人間の「皮=表層」でない「肉体」を観ようとする行為と、

同じく、記憶喪失の主人公が、執拗なまでに解剖へ執着していく行為。


その二人も符号したから、この映画がすんなりはいってきたのかもしれません。


結局、人の肉体と精神のアンビヴァレンツな関係、そこになんらかの接点をもたせようとしたのが、この映画だと思う。


主人公と恋人のセックスは、お互いの首を絞めあいながら、死との接点を持ちながらでないと、成立しえない、非常に不安定なもの。ある意味、セックスは、男の肉体が、女性の肉体を切り刻んでいく解剖行為ともいえるし、口唇性愛は、女性が男性の肉体を切り刻む解剖行為の代償行為なのかもしれない。精神より先に、肉体、その内側に入り込みたい、という欲求がセックスなんでしょうね。その行為だけでは、お互いの性愛=肉体を確かなものに出来ない二人の行為が、より死と隣接させる首を絞めながらのセックス、ということなのでしょう。


また主人公の恋人・涼子に、類稀なる美しき肉体と身体能力を持つダンサー・柄本奈美を据え、主人公の彼岸の記憶中で、狂気じみた舞を見せたことも、このテーマにかなうように思う。


土方巽はじめとする、ある種の舞踏家たちが語っていることですが、「モダンダンスが上へ上へと向かうものならば、舞踏は下へ下へと向かうもの」・・・ベクトルを大地へと向かわせる「舞踏」とは、いわば肉体を原始・原子(=細胞)のレベルまで引き下げる行為、なんでしょうか・・・


映画の中で柄本奈美が見せた舞は、大地へと向かうベクトルと、空へと向かうベクトルが、共存した不思議な表現をしていました。その表現は、肉体(下へ)と精神(上へ)の関係、と自分は感じました。



死を肉体で感じること。

そのためにお葬式では、死者の姿とじっくり対面し、見つめ、文字通り、瞳に死者を刻みこまねばいけない。

それは刻みこむ、というのは、傷を付けることと同義。


主人公は、恋人の死と自分の記憶=存在を感じるために、さらにひとつ深いレベルの行為、肉体の内部を見つめ続ける必要があった。


それは、倒錯的ではあるけど、「愛の深さ」ゆえ、といえるはず。


生と死のはざまで、深遠な愛の深さをかんじさせたこの作品。


ちなみに・・・

「ヴィタール=VITAL」とは、哲学者ベルクソンの「エラン・ビタール=生の躍動」からとられているそう。

「生の躍動」・・・


お葬式を終え、火葬場で恋人の遺体を見送った後

主人公の恋人との回想。雨の中、幸せそうに紫陽花を見つめる二人。恋人がぽつり。

「いい匂い・・・」


それがラストシーン。そして闇の中流れるCOCCOの歌。



ある種の人には、たぶん、身にしみる映画だと思います。


オススメはしないけど。